バブル崩壊後、日本はどのようにして不良債権処理をすすめたのか


バブル崩壊後の不良債権問題に対処するため、日本は以下の手段を取りました。

バブルが崩壊した1990年以降、多くの企業や金融機関の経営が厳しくなり、経済成長が鈍化しました。失業率の上昇や個人消費の減少が見られ、経済全体が停滞しました。また、デフレーション(物価の持続的な下落)も進行しました。
過剰融資により金融機関は多くの不良債権を抱え、1990年代中盤には金融危機が顕在化しました。
多くの銀行が経営危機に瀕したため、政府が金融安定化策を打ち出すこととなりました。

バブル経済の真っただ中、銀行は上昇する不動産を担保にして低金利で企業への融資を行い、企業は年間142兆円のペースで銀行から借金をしていました。そして1990年には636兆円もの純負債を抱えるまで膨らんでいました。
しかし1990年に日銀は公定歩合を引き上げて融資総量を制限し、バブルを抑える政策を推進しました。
これにより金利が急上昇し不動産などの需要は低下、不動産をはじめとする企業の資産価値が下落し、多くの銀行が不良債権を抱えました。
1994年以降信用組合などが破綻しはじめ、不動産業者に対して大きな不良債権を抱えていた住専(住宅金融専門会社)7社が1996年に破綻しました。

1994年に破綻した信用組合の不良債権処理のため、1995年に東京共同銀行が設立。この銀行を母体に、1996年に整理回収銀行が設立されて、破綻した信用組合の営業を預金保険機構に譲渡する代わりに資金贈与を受ける(抵当証券などの金融商品は保護されず)などの不良債権処理が行われました。
さらに政府は6085億円の公的資金を投入して、破綻した住専7社の不良債権処理を実施。不良債権の買取や回収を行うために設立された住宅金融債権管理機構に住専の債権が譲渡されました。
1998年には金融再生法が制定され、総額60兆円公的資金枠を設けて、経営危機に陥っていた長銀(新生銀行の前身)と日債銀(あおぞら銀行の前身)に公的資金を注入しました。
その後金融債権管理機構は、1999年に整理回収銀行と合併して整理回収機構となりました。

最終的に、直接注入と不良資産の買い取りを合わせて22兆1000億円の公的資金をつかって不良債権問題を処理しました。

日本のバブル経済が崩壊するまでの経緯



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